✐概要
最後の貴婦人である母、破滅への衝動を持ちながらも”恋と革命のため”生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。
没落貴族家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲愴な心情を、4人4様の滅びの姿のうちに描く。
昭和22年に発表され、”斜陽族”という言葉を生んだ太宰文学の代表作。
✐一文
『私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。』
生き方に苦悩するかず子が、自分らしく生きる道を見つけ出したときの一言。
貴族や庶民等、世間体を気にしながら生きなければならない世界で、誰しもが本心を隠したまま、他人だけでなく自分自身さえも偽りながら生きている。
それでも、恋と革命への想いだけは、何人たりとも隠すことはできず、人としての正直な姿が投影される。
これは現代社会にも通じるものがあって、
✐序章
朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母様が、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。
「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじスウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。
ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。
婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。
弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向かってこう言った事がある。
「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいものもいる。岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の遊郭の客引き番頭よりも、もっとげひてる感じじゃねえか。こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんて着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」
スウプのいただきかたにしても、私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、そうしてスプウンを横に持ってスウプを掬い、スプウンを横にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずにスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。
✐さいごに
本作は昭和22年に発表され、”斜陽族”という言葉を生んだ太宰文学の代表作です。
貴族が没落していく様子が長女のかず子視点で描かれていますが、没落することを受け入れられずに、家族がそれぞれの形で気持ちを保とうとします。
死の床にありながらも、最期まで凛とした姿勢で貴族でありつづけるお母さま。
貴族でいられなくなる不安から、精神を保つために恋を選んだかず子。
お母さまの姿に憧れながらも上手く生きられず、精神を保つために堕落を演じ続けた直治。
おすすめポイントは、冒頭の華やかな雰囲気から徐々に家族が壊れていく様子を、とても人間らしく描かれているところでしょう。貴族も庶民の同じ人間、貴族であり続けたプライドが生きづらさを運んできたのでしょう。
貴族の没落を通して、人間らしく生きることの難しさがだだ漏れでした。
プライドを捨て去り、人間らしく生きていきたいと思っている方、ぜひ一読してみてはいかがでしょうか。