『つながりの蔵』椰木美智子 著

41歳の夏、同窓会に誘われた遼子。
その同窓会には、蔵のあるお屋敷に住むの憧れの少女・四葉が来るという。
30年ぶりに会える四葉ちゃん――。

小学校5年生のある夏。
放課後、遼子と美音は四葉の家でよく遊ぶようになった。
広大な敷地に庭園、隠居部屋や縁側、裏には祠、そして古い蔵。
四葉の家は幽霊屋敷と噂されていた。
ある日、四葉が好きだというおばあちゃんの歌を聞きに遊びに行くと、それは”御詠歌”というどこまでも悲しげな音調だった。

”死を受け止めることは難しい。でもそれでいいのだと教えてくれる”

少女たちが秘めた、誰にも言えない心の傷。
輝く少女たちの物語。

感想

本作は、主人公の遼子がかけがえのない友だちとの様々な感情を通して、人の死をどのように受け止めるか向き合い、成長していく話です。

祖母が大好きで大好きでしかたない主人公の遼子。
だけど、入院して認知症が進み、死が迫る姿を見て、自分を忘れたまま逝ってしまうのではと、不安になります。

一方、2年前に弟を亡くした、遼子の幼なじみの美音。

人がいつか死ぬことはわかっているけれど、それはまだまだ先の話だし、身近な人の死に立ち会わない限り、それは遥か遠くにあるおとぎ話のように感じるものです。
だから、小学生の遼子たちにはそれがどんなものなのか、わからない。けれど、このままじゃダメだということはなんとなく感じている。

人になったとしても、大切な人の死はやっぱり悲しいし、自分がいつか死を迎えることは怖いものです。
でも、それで良いのだと、誰だってそうなんだと、本作品がそう言ってくれているように感じました。

私の場合、誰かが亡くなったとしても、その人の声や姿、表情を思い出せるうちは、その人は自分の中で生きている、そうやって受け止めるようにしています

身近な人が離れてしまうことに不安を抱いている方、ぜひ一読してみて、自分なりの死の受け止め方を考えてみてはいかがでしょうか?

おすすめポイント

✐推しの一節

悲しみを受け入れることができるというのは、これまでそれなりに一生懸命生きてきたことへのご褒美のように感じられるのだった』

四十一歳になった遼子が、親しい人の死と向き合ったときに感じたこと。

二十歳のころに恋人を事故でなくした時、悲しみを受け入れずただ泣くことしかできなかったけれど、四十一歳の今ならちゃんと受け入れられる。
それは感受性が弱くなったからではなく、旅立つ人が積み上げてきた人生を思い、遺された者としてどうすべきかをちゃんと考えられるようになったということだと思います。

それを”ご褒美”という言葉で表現するところはおもしろいと感じました。

作品の冒頭(抜粋)

家の中にいても、外で鳴いているセミの声が大きく聞こえる。
買い替えたばかりのエアコンはとてもしずかで快適だ。

先週、天気予報で今年初の真夏日の知らせを耳にした日、待ってましたとばかりに寝室のエアコンの調子がおかしくなった。

窓を開けても涼しい風が入ってくるわけでもなく、新しいエアコンが届くまでの一週間、遼子はひかりの部屋で、夫はリビングで寝ることとなった。
夫にリビングで寝られると朝がだらしなくなるので、時生の部屋で寝たら?と提案してみたが、時生にはもう断られたんだ、と夫は小さく笑った。

ひかりと時生は小学六年生の双子の姉弟だ。
ついこのあいだまで幼児だったのに、今では誰がどこから見ても正真正銘の「子ども」となっている。
来年は中学生だなんて、とても信じられない。

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