何不自由なく、幸福に暮らしている由井。
しかし、ふとした瞬間にフラッシュバックしたのは、あのころの恋。
できたての喉仏が美しい桐原と過ごした時間は、由井にとって生きる実感そのものだった。
逃げ出せない家庭、理不尽な学校、非力な子どもの自分。
誰にも言えない絶望を乗り越えられたのは、あの日々があったから。
桐原、今、あなたはどうしてる?
感想
本作は、幸福な生活で満たされている主人公の女性が、自分を愛することができるようになったかつての記憶、自分を変えてくれたかつての恋人に思いを馳せながら、現実の自分と向き合う作品です。
作品は、全体を通して主人公の由井の人生をたどる連作短編の形式で構成されています。
学生時代、母子家庭という環境の中、親戚や周囲の大人からの声に、耳をふさぐように、日々に絶望しながら暮らす由井。
大人たちのエゴに振り回され、学校にも居場所はなく、ただただ耐え忍ぶだけだった毎日。
そんなとき、フラリと転向してきた桐原。
桐原の真っ直ぐな眼差し、誰にでも分け隔てなく接する姿に心動かされた由井は、やがて桐原との恋に向き合うことで、少しずつ生きる希望を手に入れます。
しかし、ずっと続くと思っていた幸せは……
生きていく中で、人は時に運命的な出会いを果たすことがあります。
その相手はきっと、なんとなく波長があう人だったり、なんとなく一緒にいて楽だったり、抱えている胸の痛みに気づいてくれる人だったり。
だけど、いつまでもその人に甘えていたら自分は成長できないかもしれない、
”去るものは追わず”というように、運命の出会いが終わりを迎えるとき、もしかしたらそれは自分が成長しなければならないときで、背中を押してくれているのかもしれません。
忘れられない恋を”諦める”のか、”受け入れる”のか、自身の想いを重ね、一読してみてはいかがでしょうか。
✐おすすめポイント
桐原の飾らない性格に、殻に閉じこもっていた由井が、小さなからだでまっすぐぶつかっていくところ。
絶望していた由井が、恋をすることで、少しずつ希望を手に入れていく様子。
大人になって多くを手放してきた由井が、忘れられない桐原との恋を、どう受け入れるか。
作品の冒頭(抜粋)
イカの胴体に手を突っ込んで軟骨を引っ張り出した。
粘着質な音が響いたわりに水分は流れてこない。
残っている内臓をこそげ出そうと、もう一度手を差し入れた。
あれ、と思う。
ざらりと手に吸い付いてくる感触。
軟骨は取り除いたはずなのに、そこにもう一つ硬い何かがある。
強くつかんで、一瞬ためらった。
不安の波が押し寄せる。
いったい何が出てくるのだろう。
一息に引いてみる。
ずるりと引き出したものには……
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