『斜陽』太宰治 著

最後の貴婦人である母、破滅への衝動を持ちながらも”恋と革命のため”生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。

没落貴族家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲愴な心情を、4人4様の滅びの姿のうちに描く。

”私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれてきたのだ”

昭和22年に発表され、”斜陽族”という言葉を生んだ太宰文学の代表作。

感想

本作は昭和22年に発表され、”斜陽族”という言葉を生んだ太宰文学の代表作です。

貴族が没落していく様子が長女のかず子視点で描かれていますが、没落することを受け入れられずに、家族がそれぞれの形で気持ちを保とうとします。

死の床にありながらも、最期まで凛とした姿勢で貴族でありつづけるお母さま。
貴族でいられなくなる不安から、精神を保つために恋を選んだかず子。
お母さまの姿に憧れながらも上手く生きられず、精神を保つために堕落を演じ続けた直治。

貴族として生まれ、貴族としてしか生き方を知らない家族が没落していく中で、受け入れざるを得ない現実と受け入れることで損なわれる貴族の誇りとの間で苦悩する姿は、なんとも言い表し難い重々しさがありました。

その苦悩する姿からは人間らしさが溢れており、貴族といえどもけっきょくは庶民と同じ人間なのだと思いました。

文章自体は、比較的読みやすいので、太宰治作品が気になっている方は、手始めに手に取られてはいかがでしょうか。

おすすめポイント

✐推しの一節

私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。』

生き方に苦悩するかず子が、自分らしく生きる道を見つけ出したときの一言。

貴族や庶民等、世間体を気にしながら生きなければならない世界で、誰しもが本心を隠したまま、他人だけでなく自分自身さえも偽りながら生きている。

それでも、恋と革命への想いだけは、何人たりとも隠すことはできず、人としての正直な姿が投影される。

これは現代社会にも通じるものがあって、人は誰しもが自分の本心を隠しながら生きている(たぶん)
しかし、本心(自分らしさ)を隠さず生きられるとき、人は本当に生きている実感を感じられる
のでないでしょうか。

作品の冒頭(抜粋)

朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母様が、
「あ」
と幽かな叫び声をお挙げになった。

「髪の毛?」
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。

「いいえ」
お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじスウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。
ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張では無い。
婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、違っていらっしゃる。

弟の直治がいつか、お酒を飲みながら、姉の私に向かってこう言った事がある。

「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいものもいる。岩島なんてのは(と直治の学友の伯爵のお名前を挙げて)あんなのは、まったく、新宿の遊郭の客引き番頭よりも、もっとげひてる感じじゃねえか。こないだも、柳井(と、やはり弟の学友で、子爵の御次男のかたのお名前を挙げて)の兄貴の結婚式に、あんちきしょう、タキシイドなんて着て、なんだってまた、タキシイドなんかを着て来る必要があるんだ、それはまあいいとして、テーブルスピーチの時に、あの野郎、ゴザイマスルという不可思議な言葉をつかったのには、げっとなった。気取るという事は、上品という事と、ぜんぜん無関係なあさましい虚勢だ。高等御下宿と書いてある看板が本郷あたりによくあったものだけれども、じっさい華族なんてものの大部分は、高等御乞食とでもいったようなものなんだ。しんの貴族は、あんな岩島みたいな下手な気取りかたなんか、しやしないよ。おれたちの一族でも、ほんものの貴族は、まあ、ママくらいのものだろう。あれは、ほんものだよ。かなわねえところがある」

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