『すいかの匂い』江國香織 著

優しく寄り添う

あの夏の記憶だけ、いつまでもおなじあかるさでそこにある。
つい、今しがたのことみたいにー

バニラアイスの木べらの味、ビニールプールのへりの感触、おはじきのたてる音、そしてすいかの匂い。

無防備に出会ってしまい、心に織り込まれてしまった事ども。
おかげで困惑と痛みと自分の邪気を知り、私ひとりで、これは秘密、と思い決めた。
11人の少女の、かけがえのない夏の記憶の物語。

すいかを食べると思い出すことがある。

九歳の夏のことだ。
母の出産のあいだ、私は夏休みを叔母の家にあずけられてすごした。
両親と離れるのははじめてのことだった。
叔母の住む羽村町というのが東京都に属し、都心から日帰りで遊びに行ける場所だ、と知ったのは大人になってからのことで、何時間も電車に乗り、川が流れ、つり橋を渡って行く叔母の家は、当時の私にとって、はるか遠い田舎だった。

いい子にしていると約束し、赤ちゃんは妹にしてほしいと注文までして意気揚々とのりこんだ叔母の家だったが、私はたちまちホームシックにかかり、むっつりと黙り込んでは大人たちを困らせた。

「すいかの匂い」より

本作品は11の短編集ですが、それぞれ、11人の女性が幼いころに体験した、記憶に深く残っていることを、回想するかたちで構成されています。

それらはどれも、決してインパクトの大きいものではなく、日常の中に溶け込んでいる、ささいな一場面であったり、ともすれば忘れてしまいそうなものばかりです。
ですが、それをこんこんと語るところが、子ども心がリアルに表現されている
なとおもいました。

おススメポイントは、なんといっても、江國香織さんの繊細な文体です。
どれも、劇的な展開はないのに、読後はなんとも言えない寂寥感があり、他の作品も手に取りたくなるでしょう。

幼少期の淡い記憶、夏の思い出を再体験したい方、一読してみてはいかがでしょうか。

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