歓声と拍手に耐える理由

ちょっといい話

昨年、熱い戦いが続いたパリ五輪。

ルールに詳しくないにわかファンの僕も、なんだかんだで楽しんでいました。

そんな中、女子柔道52キロ級で、ウズベキスタン選手に敗れた阿部詩さん。
試合後に号泣する姿に、五輪にかける思いの強さを感じました。

一方で、勝ったウズベキスタン選手と負けた阿部詩さんに対し、しばらくの間SNSによる場外戦が続いていました。

当の選手ふたりは、柔道という競技の中、畳の上で勝敗は決しています。
それは、国際的なルールに則って決まったことで、誰の目にも明らかなものです。

それに対し、繰り広げられた非難の応酬、当の本人たちが望まぬ場外戦
それはとどまることなく、容姿や国籍にまで発展し、着地点の見えないものとなっていきました。

その様子を見た時、僕はふとback numberの『水平線』を思い出しました。

“透き通るほど淡い夜に”
“あなたの夢がひとつ叶って”
“歓声と拍手の中に”
“誰かの悲鳴が隠れている”
“耐える理由を探しながら”
“いくつも答えを抱えながら悩んで”
“あなたは自分を知るでしょう”

誰かが勝利を手にした瞬間、それは同時に誰かが敗北に崩れ落ちた瞬間でもあります。

歓声と拍手に包まれる勝者
悲鳴と落胆に包まれる敗者

それぞれが積み上げてきたことの集大成だから、勝ったことにも、敗けたことにも、理由なんか無くていいのだと思います。

それなのに、SNSによる場外戦が始まると、そこに理由を求められてしまいます。

本当に勝ってよかったのか?
敗北は努力が足りなかったのか?

そんな場外戦に”耐える理由を探す”​という無益な戦い

最近の傾向(個人的に感じたこと)として、あらゆるものに理由を求めすぎているのではないでしょうか。

生きる理由、仕事を辞める理由、買い物をする理由、飲み会に行かない理由、道を左折する理由、理由、理由、理由、理由理由理由・・・・・・

すべての物事に、第三者に説明できるような大義名分(理由)は必要なのでしょうか。

生きたいから、辞めたいから、なんとなくそう思うから。
理由なんてなくてもいい、なんとなくだいたいで、それだけで決めてもいいんじゃないでしょうか。

余計なことまで理由を考えなくていい、それだけで毎日はもっと楽になることでしょう。

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