これはまだ、私が20代だった頃に、実際に体験した話である。
当時、私のチームは社内でも1位、2位を争うくらいに忙しい業務を担当していた。
残業なんて当たり前で、17時になる定時のチャイムは1日の業務の折り返しの合図というくらい、時間の感覚が麻痺するくらいに追われる毎日を過ごしていた。
そのときに住んでいたアパートは、家賃も安くあまりきれいとは言えないものだったが、周囲に民家もなく静かで、帰って寝るだけには十分だった。
そんな毎日を繰り返していると、さすがに疲労も限界に近づいてくる。
その日は、前日からの資料作成が大幅に修正が入ったこともあり、肉体だけでなく精神的にもくたくたに疲れ切っていた。
17時のチャイムをやり過ごし、時間も気にせずひたすらパソコンに向かう。
ようやく目処が立ったのは、もう夜中の1時過ぎだった。
疲れた体を引きずるように車に乗り込み、急いで帰宅する。
帰ったら顔だけ洗って、さっさと寝よう。
そう思いながら眠気を我慢しつつ帰宅し、玄関のドアを開けると、そそくさと洗面台に向かった。
とその時、鏡越しに映る大きなビニール袋が目に入った。
それは、家をでるときに急いでまとめた、燃えるゴミの袋だった。
そうだ、明日は燃えるゴミの日だ。
明日も朝が早いし、今夜中に出しておかないといけなかった。
私は顔を洗うのをいったん保留し、先にゴミ捨てに行くことにした。
ゴミ捨て場は、家を出て、右手の細い裏路地を100mほど歩いたところにある。
最後の力を振り絞ってゴミ袋を掴み、玄関ドアを開ける。
そして顔を上げた瞬間、私の眠気は一気に吹っ飛んだ。
玄関ドアから5mほど、薮の手前にある木のすぐ横。
そこに、全身が真っ白なひとが立っていた。
暗闇の中に、輪郭だけの真っ白なひと。
「絶対に”あれ”と目を合わせてはいけない!」
なぜだかそう思った私は、とっさに踵を返すと、家の中に飛び込んだ。
流れ落ちる背を拭い、乱れた呼吸を整える。
なんなんだ、あれは?
白くて人の形をしていた”それ”は、間違いなく人形ではなく人間だった。
しかし、そんなものがいるだろうか?
もしかしたら、疲れていたせいで何かと見間違えたのかもしれない。
そう思った私は、玄関ドアののぞき窓からそっと外をうかがった。
それはまだ、当たり前のようにそこに立っていた。
こうなってくると、もうゴミ捨てどころではないのだが、私はどうしても今この瞬間に、顔を洗う前にゴミ出しを済ませたかった。
積もり積もった疲労のせいで、白いひとに対する恐怖と、ゴミ出しを邪魔された怒りが混ざり合って、わけがわからなくなってきた。
再び、のぞき窓から外をうかがう。
すると、ずっと立ち尽くしていた白いひとが、闇夜に紛れるようにすーっと消えていくのが見えた。
あ、これはやばい。
咄嗟にそう思い、のぞき窓から目を離す。
と同時に、やるなら今しかないという気持ちが己を奮い立たせる。
私は勇気を振り絞って玄関のドアを開けた。
白いそれは、もうそこには居なかった。
何も考えず脇目も振らず、ゴミ捨て場に全力で走る。
たどり着いたそこには、まだ回収されていないゴミが残されていた。
無事にゴミ出しを終え、一息ついて周りを見渡すと、あちらこちらに家の灯りが見える。
すると、少しずつ冷静さを取り戻し、恐怖も和らいできた。
白いひと、あれはいったい何だったのだろう。
どうして咄嗟に、目を合わせてはいけないと思ったのか。
落ち着いてよく考えてみたら、私は何に怯えていたのだろうか。
よくわからないから怖かっただけで、ちゃんと確認すればいいだけの話ではないか。
そんなことを考えながら帰りはゆっくり歩いて帰る。
数分後、だんだんとアパートが近づいてきた。
白いひと。
それは、はじめと同じようにそこに立っていた。
あっと声を上げると、私はそれに見つからないよう、目が合わないように一目散に玄関に入った。
先程よりも冷静な状態で、しかもはっきりと確認したせいか、恐怖で体の震えが止まらない。
私は顔を洗うことも忘れ、その日は電気を点けたままふとんに潜り込み、朝を待った。
翌朝、玄関を開けると、そこには見間違えそうなものなど一切なかった。
その日を境に、上司にお願いして帰宅時間を早めてもらうようにした。
もしもあのとき、白いひとと目があっていたら、私はどうなっていたのだろう。
それは今となっては知る由もない。