『アンチェルの蝶』遠田潤子 著

大阪の港町で居酒屋を経営する藤太の元へ、中学の同級生・秋雄が少女ほづみを連れてきた。

奇妙な共同生活の中で次第に心を通わせる二人だったが、藤太には、ほづみの母親・いづみに関する25年前の陰惨な記憶があった。
少女の来訪をきっかけに、過去と現実の哀しい「真実」が明らかにされていく―

”10歳の少女と40歳の居酒屋の主人。二人を結びつけた25年前の罪”

絶望と希望の間で懸命に生きる人間を描く、感動の群像劇。

感想

本作は大阪の港町で居酒屋を経営する主人公が、突然現れた中学の同級生により、かつて愛した女性と25年前の陰惨な記憶の真実と向き合う作品です。
遠田潤子さんの作品ということもあり、紛うことなき圧倒的なストーリーと重厚感

小さな居酒屋「まつ」の店主である藤太。
寡黙で無愛想だけど、その実直さで常連も多い。

そんな藤太の前に、25年来の親友である秋雄がふらりと現れたことで、物語が始まります。
秋雄が藤太に、藤太を信じて託した一人の少女。
25年前に起こったあまりにも残酷な”事故”
その事故の裏に隠されていた、藤太も知り得なかったあまりにも理不尽な真実。
その、真実の裏で護り続けた想い。

全てを知った藤太の魂の叫び。

互いに互いを思いあい、大切な人や願いを護ること。
ネタバレになるので多くは語れませんが、3人は辛く苦しかっただろうけど、ある意味では幸せだったのかも。

重厚感のある”必死に生きる世界”に浸ってみたい方、ぜひ一読してみてはいかがでしょうか。

おすすめポイント

✐はじまり

最後の客が帰ったのは十時を回った頃だった。

暖簾を下ろすため、藤太は店の外に出た。
通り雨は止んだようだが、少しも気温は下がらない。
風の止まった町は、蒸れたアスファルトと安治川の匂いがした。

まとわりつく湿気の中、藤太は掛け竿に腕を伸ばした。
すり切れほつれた暖簾は、雨に濡れたかやたらと重い。
「まつ」の「ま」の部分がべたりと顔に貼り付き、思わず舌打ちした。

父親の代から掛けたままの暖簾だから、何十年かの汚れが染み込んでいる。
もともとは紺地に白で「まつ」と染め抜いてあったが、今では白の部分は灰色にしか見えず、根の部分は茶とも緑ともつかぬ煮詰めたような色合いになっていた。

常連のなかには、居酒屋「まつ」を一見お断りの格式高い店だと笑うものもいる。
たしかにそうだ、と藤太は思った。
あの暖簾を見れば、はじめての客はまず入ってこない。

暖簾を取り込むと、足を引きずりながらレジへ向かった。
レジといっても、鍵の壊れた手提げ金庫があるかぎりだ。
たった数歩の距離だが、それでも右膝がぎしぎしと音を立てる。

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