「人が死ぬのって、素敵よね」
彼女は僕のすぐ耳もとでしゃべっていたので、その言葉はあたたかい湿った息と一緒に僕の体内にそっともぐりこんできた。
「どうして?」
と僕は訊いた。
娘はまるで封をするように僕の唇の上に指を一本置いた。
「質問はしないで」
と彼女は言った。
「それから目も開けないでね。わかった?」
僕は彼女の声と同じくらい小さくうなずいた。
(本文より)
感想
本作は、『ねじまき鳥クロニクル』全三部作の第一作目、泥棒かささぎ編です。
本作の主人公であるオカダトオルは、弁護士事務所を辞めたばかりで失業中の身。
幸いにも妻であるクミコの稼ぎもよく、家事をこなしながらゆっくりと職探しをしている。
そんなある日、クミコから飼っているネコが行方不明で探してほしいと頼まれ、これを機に少しずつ不思議な世界へ。
猫探しに入った裏路地は奇妙な形に折れ曲がり、見知らぬ人の家、空き家が立ち並び、ときどき”ねじまき鳥”の鳴き声が響き渡ります。
そして、唐突にかかってきた一本の電話。
「十分間、時間がほしいの」
謎の高校生の笠原メイ、義理の兄のワタヤノボルについて語る加納マルタ・クレタ姉妹、姿の見えないねじまき鳥、それらが意味するものとは?
まさに村上春樹作品という感じの、舞台設定と登場人物です。
物語は、猫探し、加納姉妹との関係、間宮少尉と本田さんからの贈り物と、謎だらけのまま第二部へと。
村上春樹作品でおなじみ?の加納姉妹が出てくる本作、ぜひ一読してみてはいかがでしょうか。
作品の冒頭(抜粋)
1 火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。
僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。
スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。
スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウディオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ち上げようとしていたのだ。
しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器を取った。
新しい仕事の口ことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。
「十分間、時間を欲しいの」、唐突に彼女が言った。
僕は人の声色の記憶にはかなり自信を持っている。
それは知らない声だった。
「失礼ですが、どちらにおかけですか?」
と僕は礼儀正しく尋ねてみた。