遠足のおやつは何にしよう?三連休はどこに旅行しよう?
みたいに、”何かを決める”ということ。
それは必ずしも嬉しいものや楽しいものというわけでもなく、時につらく苦しいものであったり、ものすごくめんどくさいものであったりもします。
ですが、確かに言えることは、それらの決断はどれも、最終的には自分の意思でしたものであるということ、そして今の僕たちは数限りないたくさんの決断の延長線上にいるということです。
幼いころは、親の言うことが正しいという思いもあって、親の意見と自分の意見と秤にかけることは少ないでしょう。

ですが、それなりの年齢になっていくと、次第にその両者の間に違和感を感じ始め、自分の意見を通す、つまり自分で決める機会が増えていきます。
それは例えば、部活は何に入るか、テスト勉強を今するか朝早起きしてするか、体育祭で何色の靴下を履いていくか、どこを受験するか、好きな子に想いを伝えるかなど、大きなものから小さなものまで、毎日のように決断を積み上げていることに気づきます。
大人になると、その機会はますます増えていきます。
就職するか、情報を上司と共有するか、上司の指示に従うか説得するか、残業するか、マイホームにするか賃貸にするか、友だちと議論するか、結婚するか離婚するか、転職するか、飲み会に行くか、するかするかするか……
大切なことは、どの決断であっても、最終的に決めるのは自分であるということです。
情報を共有せず上司に叱られも、残業して終電を逃しても、マイホームを買ってローン地獄にハマっても、議論して友だちとケンカになっても、親にいわれて結婚しても、転職して給料が下がっても、飲み会で上司にグチグチいびられても、その全てにおいて最終的に決めたのは自分です。
なので、その結果が思っていたものとは違っていても、自分で決めたことだから、反省や後悔はあるにしても受け入れることができるし、次に活かすことだってできます。
その一方で、これらを誰かのせいにするのは責任も伴わないので楽だし、とても簡単です。
相手が上司には伝えるなと言ったから、先輩に残業するよう言われたから、親戚がマイホームを勧めてきたから、親が結婚しろと言ったから。
ですが、決断を誰かのせいにした時点で、それは誰かの人生を代わりに具現化しているだけで、自分の人生ではなくなってしまいます。
決断を誰かのせいにするということは、責任という重荷から逃れる対価として、誰かの人生を演じるようなものなのかもしれません。
僕自身を振り返ってみると、今までの決断のうちの7割くらいは、誰かのせいにしてきた気がします。
今目の前に決断を迫られている人、近い将来何かを決断しなければいけない人。
迷ったときは”誰か”ではなく、自分の意思で決断してみてはいかがでしょうか。

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